こんにちは。小野仁土です。
今回のブログ記事は私の開業物語第3話です。
手塚治虫ワールドとの出会いで、希望の光が差し込み、息を吹き返しつつある私の人生。
回復のためには人生をゼロリセットする必要があったようです。
すっかりダメになってしまった自分の人生を整理し、再スタートの準備にとりかかるのですが、心の中には葛藤もありました。
沢山の方の温情によってこの葛藤が解きほぐされ、新たな人生を模索します。
ついに抜け出した「うつの暗闇」
手塚治虫の「ブッダ」と「火の鳥」は私にもう一度やり直していく力を授けてくれました。
授けてくれたというか、手塚漫画の世界に保護されたような感じでした。
変な例えなのですが、昔テレビでよくやっていた「ムツゴロウ王国」で、憔悴しきった状態で保護された動物が、温かいお湯でキレイに洗ってもらったり、餌をたべさせてもらったりして、生きていく力が回復していく、あんな感覚です。
来る日も来る日も「ブッダ」「火の鳥」「ブッダ」「火の鳥」と読み返しました。
鬱のどん底で宗教にすがろうと考えた私に手を差し伸べたのは、漫画の神様でした。
かくして、雁字搦めだった精神が解れだした私は、ドライブに出てみることにしました。心のリハビリです。
と言っても、人と触れ合うような勇気はないので一人ドライブです。
行く先は奈良の薬師寺でした。
ここは、私が小学5年生のときに夏休みの自由研究の題材にさせていただいたところで、初めて一人で何もかも計画をたてて遠出した場所だったのです。
拙い小学生のはじめての遠出先に、33歳の鬱病のオッサンが再び訪れたくなった心境…、伝わりますでしょうか…。
手塚ワールドに保護されて、「ブッダ」と「火の鳥」に心を洗われた私は、ある意味で精神状態がものすごく若くなっていたのかもしれません。
幼くなったとか、拙くなったとか、そういうことではなく、若返った感じです。
とてもクリーンな気持ちでした。
ちょうど季節は春。
たんぽぽが道端にたくさん咲いていたのをうっすら覚えているのですが、少し暑さを感じたと思うので、たぶん5月くらいだったのではないかと思います。
季節を感じたのは何年振りだろう・・・・。そう思ったのを覚えています。
20年以上ぶりに訪れた、なつかしいお寺だったのですが、実はそのお寺の記憶は残っていません。
それでもドライブはいいリハビリになったのでしょう、心が軽やかになった実感がありました。
私はそのことを心療内科の先生に報告しました。
身体を動かすことで心身をデトックス
ついに動けるようになった私に心療内科の先生から大きなアドバイスがありました。
ジムに通って運動することを勧められました。
鬱どん底の私であれば、この提案は「はい…。」って聞いて、実際に行動には移せなかったと思いますが、この時点では既に行動できる力が戻ってきていたのですね。
すぐに申込みをして、それから毎日3時間くらいのジム通いが始まりました。
当時の私は鬱病でまったく出歩かなくなったのもあるのですが、今にして思えば酒と糖質でかなり肥満になっていました。
先述したように鬱病前はめっちゃくちゃお酒を飲んでいたのですが、完全に鬱病になってからも控えめになったとは言え、お酒は欠かさず飲んでいました。
ビールをよく飲んだいたので、糖質とのダブルパンチです。
当時は糖質が身体や精神に影響を及ぼすなんて考えもしていなかったので、食事にも糖質はわんさかでした。
今にしてみれば「そりゃ太るわ。」ってな具合です。
それでも、33歳の私の身体はまだ若かったんですね。
ジム通いの効果はとても大きなものがありました。
身体を動かして筋肉をつけ、汗を流すことが、こんなにも人に良い効果があるなんて、自分でもびっくりでした。
体重は最終的には半年で5kgほど落ちたと思います。
実際の数値はよく覚えていませんが、かなり頑張って筋トレしたので、体脂肪率の改善のほうが体重減よりも大きな成果を出していました。
そして何より、身体を動かして汗を流し、サウナと風呂で、もう一汗かいて、キレイさっぱりして、家に帰る、そのサイクルが私の精神を再構築する上でとても重要な土台になりました。
物理的にも精神的にも、体内に蓄積していた「何か悪いもの」が汗とともに、流れていくような感じでした。
いわゆるデトックス効果ですね。
私の精神に覆いかぶさっていた「暗い闇」は、「ブッダ」「火の鳥」を読んだことで剥離し、体の中に蓄積していた老廃物として汗とともに排出していったような感覚でした。
2005年秋のことでした。
人生最大の心残りを整理して再出発
日中にジムで体を動かし、家に帰って手塚ワールドの中に自分を漬け込んで、デトックスをする日々が3か月ほど続いたころからだと思います、私は自分の未来について考えるようになっていました。
「ブッダ」「火の鳥」を繰り返し読み続けたことは、ある意味で自己洗脳です。
過去の自分の生き方を全否定するまでではありませんが、それまでの人生で積み上げた価値観を再稼働させて、未来を描くことは全くできなくなっていました。
ただ、それは鬱病のどん底にいたころの、絶望感に満ちた価値観の否定ではなく、新しい未来を再構築する、意欲に基づいた価値観の再構築でした。
これからの未来は、ゼロの状態からなんでも選べる。そういう心境でした。
そんな私に、休ませてもらっていた会社から連絡がありました。
休業を補償してもらっていると先述していたのですが、これは正確には「傷病手当金」で生活を補償されている状態です。
これには当然のことながら期間があって、支給開始から1年6か月が最長とされています。
2004年夏前からの休業には、この手当の支給を受けていたのですが、リミットが目前にせまっていたのです。
会社復帰するか退職するか…。
鬱病の闘病を経て、価値観再構築の最中にいる私には、会社に復帰するという選択肢はありませんでした。
大学を卒業して23歳に入社し、私を大人として成長させてくださり、私の鬱病闘病生活を経済的に生活を支えてくださった会社です。
そして、ある日突然の出社拒否と多大な迷惑をおかけしてしまった私を、寛大に支えてくださった会社です。
大きな感謝の念がありましたが、不思議と心残りはありませんでした。
私は辞表を提出することを決め、鬱病で休んでから初めて自分自身で会社に連絡を取りました。
いざ会社に訪れようとした時、今まで目を背けていた大きな傷が私の中で疼きました。
突然休んだことで多大な迷惑をおかけしまったであろう上司・先輩や同僚へ顔向けできない気持ちです。
穴があったら入りたい心境(というか完全に穴の中にいる状態ですね)は、休み始めた鬱病どん底のころと何ら変わっていませんでした。
休んで以来、会社の方との接触は完全に断ったまま、お詫びすらせずにいましたので、当然のことでした。
こうしたことのすべてを整理しなければ、自分は未來に一歩を踏み出せないことはわかりきったことでした。
そうしたことを乗り越えて、辞表を手に会社を訪れるのはプレッシャーでしたが、なんとか大丈夫でした。
我ながらホッとしたものです。
上司に辞表を提出し、ご迷惑をおかけした多くの方々に、お詫びと退社のご挨拶廻りをしました。
誰もが私の回復を心から喜んでくださり、そして励ましてくださいました。
本社にも出向いて社長にお会いし、仕事上関係があったたくさんの方とお話をしました。
そして誰もが応援の言葉をかけてくださいました。
こんなに心の温かい方々が集まった素晴らしい会社を、自分の都合だけで退職する私は本当に愚か者だと思いました。
ところが、会社の方々がかけてくださる温かい言葉は、そんなネガティブな私の気持ちすらも打ち消してしまいました。
ついには、目を背けていた大きな心残りが整理され、清々しい気持ちになったことをよく覚えています。
もし、このブログ記事を元会社の方々が読まれることがあったなら、改めてここでお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。
余談なのですが、実は今でも会社員だったころを夢に見て目覚めることが多いです。
少なくとも週に一度は夢の中で、私はまだ会社員だったりしています。
と言っても鬱病のあの苦しさを思い出すようなものではないので、魘(うな)されたりしてるわけではありません。
私はカフェを開業して既に15年以上です。
会社員生活は約10年で、もはやカフェオーナー歴のほうが長いのですが、私にとってこの会社員時代はとてつもなく大きなものだったことを現しています。
おそらく死ぬまで夢にみるんでしょうね。
もちろん嫌な気はしていません。
ともあれ私は、かくして本当の自分の未来に向かって、再出発を切ることになりました。
2005年の暮れに近いことだったように記憶しています。
生きる道を選ぶ
会社を訪ねた翌日から私は晴れて無職者として、今後の人生を再構築する作業に入りました。
先に述べたように「何でも選べる」とは言ったものの、実はコンプレックスもありました。
就職についてです。
以前勤めていた会社の温情もあって、清々しく新し道を歩みだすことができたとは言え、鬱病で会社を突如休んだ末の自己都合退職です。
再就職活動をするには、あまりに大きなハンディキャップです。
前職の実績もあるにはあるでしょうけれども、ひけらかせるような立場にもありません。
そして何より会社員に戻ったら、またあの「暗い闇」が私の中に芽生えてくるのではないかという、不安もありました。
そんな訳で私のもつ選択肢は起業あるのみでした。
もはや、失うもののない状況の私ですから、まったく躊躇はありませんでした。
「なんでも選択できる」という心境は、こういう時には強いです。
その当時、幸い私は独身ですし、交際している人もいませんでした。
親はまだまだ元気だし、兄弟は妹一人で既に結婚して子供も二人いましたから、家族の将来を考えても、最悪私がどうにもならないジリ貧起業家になったとしても、迷惑かけないようにすれば大丈夫だと思える状況でした。
4畳半一間のアパートで一人生きていけるくらいなら、なんとかできるだろう。
それまでの価値感をかなぐり捨てたことで、私は前だけを見て開き直れるほどまでとなっており、本当の回復まであと一歩というところまで来ていたのだと思います。
第3話 解説
今回も、最後までお読みいただきありがとうございます。
今になってみれば、本当に穴があったら入りたいほどクヨクヨしてて、ちょっとしたことをするにも、ものすごく精神的にはエネルギーが必要だったのがこの時期です。
記事中では会社を辞めるにおいて、上司や同僚から受けた温情について語っていますが、プライベートでもまったく同じでした。
特にバンド仲間、音楽仲間の温かい温情は、私にとても大きな力を与えてくれました。
私はうつ病のどん底にいた時、たった一人の暗闇にいたと思い込んでいましたが、実は本当に多くの方が、影で見守ってくれていました。
本当の意味でそのことに気づけたのは後のことになりますが、不幸のどん底にいると思っていたのは自分だけで、本当はうつの頃であっても、幸せものだったのかもしれません。