【七転八起の人生録!カフェジンタ開業物語】今ある幸福な人生は、どん底の苦しみから始まった。

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【七転八起の人生録!カフェジンタ開業物語】今ある幸福な人生は、どん底の苦しみから始まった。

こんにちは。小野仁士と申します。

カフェジンタ三条烏丸のウェブサイトへお越しいただきありがとうございます。

2006年9月。私は10年間勤めた電機系商社のセールスエンジニアからカフェオーナーに転身しました。

店名はカフェジンタ。京都市のど真ん中、三条烏丸にある小さなお店です。

このカフェジンタを営む私のプロフィール、概略はこのページのリンク元でお読みいただいた通りなのですが、ここではより深く詳細に私の自己紹介をさせていただこうと思います。

たった一人での脱サラ創業で始まったカフェジンタ。

たくさんの方のご支援があり、素敵な出会いがあり、晩婚ではありますが結婚して家庭を持てた上に、二児の父にもなるという、幸福を迎え入れることができました。

3年で2割しか残らないと言われるカフェ稼業も、おかげ様で15年となりました。

今は家族や仕事にも恵まれて、思う存分自分で描いた人生を歩んでいる私ですが、実はかなーり暗い過去の持ち主でもあります。

ここでは、そんな私の過去から今に至るまでの人生を振り返りながら、

なぜ私がカフェを営むのか

そして

なぜカフェオーナーである私がライフスタイルの情報発信を行うのか

ということをお伝えしていければと思います。

しがないカフェオーナーの七転八倒な人生物語ですが、何かしらあなたの参考になることもあるかもしれません。

いままで人にはお話しなかった、思い出すのも辛いことも含めて、洗いざらいのことをお伝えすべく、頑張って書きましたので、よかったら最後までお付き合いくださいね。

順調だった人生が一転。逆風に脆すぎた若き日の私。

1971年、戦後復興のピークとも言える高度成長期の真っ只中、私は大手電機メーカーに務める父と小さな英語塾を営む母の間に長男として産まれました。

幼少~20歳までは、さしたる才能もない(今もないですが!笑)ながらも、家庭にも友達にも恵まれて何不自由なくスクスクと育ちました。

大学卒業後は電機系の商社に就職し、日進月歩のIT業界を支える土台ともいえる半導体製造分野で、産業用のコンピューターやモーターなどを販売する営業の仕事をしていました。

世界のIT技術を牽引するような最先端企業を相手に勤しむ仕事は、小さな領域ではあっても技術の進展に貢献しているという充実感がありました。

周囲からも期待をしていただけて、社内外の方とのプロジェクトを推進する業務は本当に遣り甲斐のある仕事でした。

プライベートのほうも安定の週休二日制で休日は趣味の音楽(バンド活動)に打ち込みました。

たくさんのミュージシャンと交流するちょっとしたコミュニティーを立ち上げて活動してましたので、自分で言うのもなんですが、それなりにリーダー的な存在だったと思います。

交友関係や異性関係も順調で、人生は順調に進んでいるかのように、思っていました。

そんな充実の日々を送る私のはずが、20代後半からなぜか気が晴れない鬱蒼とした気分が少しずつ私の心を支配していくようになりました。

得たいの知れない暗い闇のようなものが、気分を支配していく感覚は、初めのうちは家に帰って一人で過ごす時間にやってきます。

いわゆる鬱状態でした。

暗い気分を打ち消すために、晩酌をするようになりました。

私は元々ものすごーくお酒が強くて、友達とお酒をよく呑んでいたのですが、誰と呑んでも自分が最後まで吞んでいるっていうほどの大酒のみでした。

一人で晩酌するときもそんな調子なんですが、暗い気分を打ち消すために呑んでいるものだから、毎晩ほとんど寝落ちするまで呑みました。

缶ビール500mlを2本と赤ワイン1本+αの毎日とか…普通に考えて飲みすぎです。

一人暮らしでしたので、食事は自分で用意するのですが、時間があれば手料理、なければスーパーの総菜なんかを食べてました。

信号は黄色から赤へ変わり、最後には機能すら喪失

この頃には体質に変化が起こってきます。

まず太りました。それから、酷いフケ症になりました。

けっして不潔にしているわけではありません。

毎日欠かさず風呂に入りますし、シャンプーもちゃんとするのですが、フケはまったく止まりません。

フケ症のほうは、皮膚科で診てもらったのですが、アトピーという診断でした。

元々アトピーなんかに縁のなかった私だったのですが…。

花粉症を自覚するようになったのもこの頃です。

身体的に色々と不調を覚えるようになると、これもまた気分を憂鬱にさせる原因となります。

憂鬱な気分というのは一方で大きな焦燥感が起こります。

「こんなんではダメだ…。」という自責の念。

憂鬱感と焦燥感が同居して、意味もなく夜更かしするようになりました。

家で一人居ても、寝たらいけないかのような感覚があって、何かをしなきゃと起きてるのですが、酒は呑んで酔ってるし、結局何もできません。

とうぜん翌朝の調子は最悪で、気分が活動的になるには時間がかかりました。

最初のうちは、他人には迷惑をかけまいと、会社に出社するころにはなんとか持ち直していたのですが、落ちていく人生ってを食い止めるってなかなかできないものですね。

そもそも、落ちていくには理由があって、基本的に精神的なエネルギーが足りないからなんですよね。

落っこちようとしてるものを、支えるのってすごくエネルギー使うじゃないですか。

それと同じで、落っこちていく自分の精神は、自分ひとりじゃ支えられなくなるんですね。

結局、落ちていく自分を支えることが出来なくなった私の心は、ある日突然折れました。

心が折れるというか、精神が太い鎖で雁字搦めになったというほうが、しっくりくるかもしれません。

それまでの人生で積み上げてきた色んな要素って、それぞれ相互につながりあってるのですが、なんだかそういう繋がりが、全部硬直して働きをやめてしまったような感じでした。

過去も未来もないし、好きなことも嫌いなことも、他との交流も、何もかも自分の中で石化していくような感じでした。

32歳。2004年夏前の出来事でした。

鬱だけが寄り添う真っ暗闇の部屋の中で

ある日、完全に崩れ落ちた私は、その日以来誰とも接触できず、外にも出られなくなってしまいました。

もう、本当に情けなく恥ずかしい話なのですが、会社は無断欠勤でした。

それからしばらくの間の記憶がかなり抜け落ちてまして、いったいどうやって過ごしたのか、非常に断片的なのですが、思い出せるだけ書いてみます。

当然、無断で会社を休んでるので、家の電話や携帯電話に何度も連絡があったと思います。

多分、上司だと思うのですが家に尋ねてきてくださったこともあったと思います。

ですが、あの日以来私は昼も夜もなく暗い部屋で布団に蹲って動けない状態です。

電話線は抜いちゃって、携帯電話は電源オフ、インターホンすらならないように、ブレイカーも落として、とにかく外部から接触されること自体を断ち切っていたように思います。

迷惑かけてるんだからお詫びしなければという気持ちもありましたが、その気持ちの何倍もの暗くてどうしようもない「負」に覆いつくされた自分でした。

結局、1週間なのか2週間なのか、それとも1か月以上なのか…、今では思い出すことが出来ないのにですが、とにかく結構な間いっさい誰とも繋がらず、布団に蹲っていたと思います。

どれくらいの時間を過ごしたのかわかりませんが、長い時間が過ぎていったように思います。

なんとも言えない真っ暗で不快さがパンパンに詰まった袋の中にいる心境でした。

そんな不快な暗闇の張りつめた静寂を打ち破ったのは、近くに住む実家の母親でした。

会社から話を聞いた母親が、心配して訪ねて来たのです。

九死一生。感謝してもしきれない母の慈愛。

先述したように、私は完全に外部からのアクセスを絶っていました。

母はドアノブに手料理を下げて、ドアポストに手紙を投げ入れて帰ったように思います。

どれくらい時間が経って気付いたのか、わかりませんが、私はその手料理を泣きながら食べました。

それから、何日も母親が私の家のドアに手料理を下げ、それを泣きながら食べる日が続きました。

母親の手料理というのは本当に凄い力があるものです。

どれほどの間その期間があったのか全く思い出せないのですが、外部の一切を断ち切って籠りきっていた私の心は、母親の根気と愛情によって、ついに解され母親に連絡を取りました。

それが、電話だったのか、メールだったのか、直接話をしたのか、思い出せないのですが、会社がとても心配してくれていて、傷病手当で休業を補償するための段取りをしてくれていることを知りました。

その休業補償を得るためには、心療内科医の診断書が必要とのことでした。

心療内科を訪れ、診察の結果、診断はやはり「鬱病」でした。

実は、こうなる予兆があった時から、私は心療内科に通院していました。

これまでは病に至らない「抑うつ状態」ということで、薬治療をうけていたのですが、結局最後にこうなってしまい、「鬱病」という診断となってしまいました。

その診断を受けたとき、とても不思議なことに、なにかホッとした自分がありました。

当時はまだ今のようにうつ病というのが一般的に理解されていなかったし、自分も理解が十分ではなかったので、まさか自分が精神疾患者になるなんて…と思いつつも、想像はできていました。

だから、「君はうつ病なんだから、ちゃんと休んで心に充電が必要ですよ。」と言われても、「あー、やっぱりそうだったんだ…。」と、すーっとその言葉を受け入れることができました。

今思えば、その瞬間が、落ちるところまで落ちたどん底でした。

当時の私は「得体の知れない暗い闇」に完全に覆いつくらされているような心境ではありましたが、それでも死を選ぶところまではいきませんでした。

あの母の慈愛がなかったら…。

私の転落人生は、悍ましい結果に至る前に底をつき、親の慈愛に救われました。


第1話 解説

第1話は、なかなか、痛ましい人生経験で、暗いばっかりのエピソードでしたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

この第1話の中で、後の私の人生に大きく影響を及ぼしたことがあります。

母の慈愛弁当です。

料理に込めた母の思いは、私を自暴自棄に走りおぞましい結果に至ることを、思いとどまらせてくれました。

あの母の慈愛は、カフェを通してお客様に料理を提供する身の私にとっては、人生の柱となりました。

カフェジンタでは「飲食習慣を最適化」ことをご提案していますが、その発端となったのがこの体験でした。

私は「ヒトは何のために生きるのか」と考えたとき、「命をつなく」ことを、一つの答えとしています。

まさにそれを実感したのが、今回の記事にしたエピソードです。

次回のブログ記事は、おぼろげながら生きる意味の答えに近づいていくことで、生きる希望を取り戻していった心境をつづります。

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【七転八起の人生録!カフェジンタ開業物語】神にすがる!?暗闇にいる私に手を差し伸べたのは、あの有名な「漫画の神様」だった。

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