七転八倒の人生録!カフェジンタ開業物語

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七転八倒の人生録!カフェジンタ開業物語

あらためまして、こんにちは。
カフェジンタオーナーの小野仁士と申します。

カフェジンタのブログページへお越しいただきありがとうございます。

2006年9月。私は10年間勤めた電機系商社のセールスエンジニアからカフェオーナーに転身しました。

このカフェジンタを営む私のプロフィール、概略はこのページのリンク元でお読みいただいた通りなのですが、ここではより深く詳細に私の自己紹介をさせていただこうと思います。

たった一人での脱サラ創業で始まったカフェジンタ。

たくさんの方のご支援があり、素敵な出会いがあり、晩婚ではありますが結婚して家庭を持てた上に、二児の父にもなるという、幸福を迎え入れることができました。

今は家族や仕事にも恵まれて、思う存分自分で描いた人生を歩んでいる私ですが、実はかなーり暗い過去の持ち主でもあります。

ここでは、そんな私の過去から今に至るまでの人生を振り返りながら、

なぜ私がカフェを営むのか

ということをお伝えしていければと思います。

しがないカフェオーナーの七転八倒な人生物語ですが、何かしらあなたの参考になることもあるかもしれません。

いままで人にはお話しなかった、思い出すのも辛いことも含めて、洗いざらいのことをお伝えすべく、頑張って書きましたので、よかったら最後までお付き合いくださいね。

順調だった人生が一転。逆風に脆すぎた若き日の私。

1971年、戦後復興のピークとも言える高度成長期の真っ只中、私は大手電機メーカーに務める父と小さな英語塾を営む母の間に長男として産まれました。

幼少~20歳までは、さしたる才能もない(今もないですが!笑)ながらも、家庭にも友達にも恵まれて何不自由なくスクスクと育ちました。

大学卒業後は電機系の商社に就職し、日進月歩のIT業界を支える土台ともいえる半導体製造分野で、産業用のコンピューターやモーターなどを販売する営業の仕事をしていました。

世界のIT技術を牽引するような最先端企業を相手に勤しむ仕事は、小さな領域ではあっても技術の進展に貢献しているという充実感がありました。

周囲からも期待をしていただけて、社内外の方とのプロジェクトを推進する業務は本当に遣り甲斐のある仕事でした。

プライベートのほうも安定の週休二日制で休日は趣味の音楽(バンド活動)に打ち込みました。

たくさんのミュージシャンと交流するちょっとしたコミュニティーを立ち上げて活動してましたので、自分で言うのもなんですが、それなりにリーダー的な存在だったと思います。

交友関係や異性関係も順調で、人生は順調に進んでいるかのように、思っていました。

そんな充実の日々を送る私のはずが、20代後半からなぜか気が晴れない鬱蒼とした気分が少しずつ私の心を支配していくようになりました。

得たいの知れない暗い闇のようなものが、気分を支配していく感覚は、初めのうちは家に帰って一人で過ごす時間にやってきます。

いわゆる鬱状態でした。

暗い気分を打ち消すために、晩酌をするようになりました。

私は元々ものすごーくお酒が強くて、友達とお酒をよく呑んでいたのですが、誰と呑んでも自分が最後まで吞んでいるっていうほどの大酒のみでした。

一人で晩酌するときもそんな調子なんですが、暗い気分を打ち消すために呑んでいるものだから、毎晩ほとんど寝落ちするまで呑みました。

缶ビール500mlを2本と赤ワイン1本+αの毎日とか…普通に考えて飲みすぎです。

一人暮らしでしたので、食事は自分で用意するのですが、時間があれば手料理、なければスーパーの総菜なんかを食べてました。

信号は黄色から赤へ変わり、最後には機能すら喪失

この頃には体質に変化が起こってきます。

まず太りました。それから、酷いフケ症になりました。

けっして不潔にしているわけではありません。

毎日欠かさず風呂に入りますし、シャンプーもちゃんとするのですが、フケはまったく止まりません。

フケ症のほうは、皮膚科で診てもらったのですが、アトピーという診断でした。

元々アトピーなんかに縁のなかった私だったのですが…。

花粉症を自覚するようになったのもこの頃です。

身体的に色々と不調を覚えるようになると、これもまた気分を憂鬱にさせる原因となります。

憂鬱な気分というのは一方で大きな焦燥感が起こります。

「こんなんではダメだ…。」という自責の念。

憂鬱感と焦燥感が同居して、意味もなく夜更かしするようになりました。

家で一人居ても、寝たらいけないかのような感覚があって、何かをしなきゃと起きてるのですが、酒は呑んで酔ってるし、結局何もできません。

とうぜん翌朝の調子は最悪で、気分が活動的になるには時間がかかりました。

最初のうちは、他人には迷惑をかけまいと、会社に出社するころにはなんとか持ち直していたのですが、落ちていく人生ってを食い止めるってなかなかできないものですね。

そもそも、落ちていくには理由があって、基本的に精神的なエネルギーが足りないからなんですよね。

落っこちようとしてるものを、支えるのってすごくエネルギー使うじゃないですか。

それと同じで、落っこちていく自分の精神は、自分ひとりじゃ支えられなくなるんですね。

結局、落ちていく自分を支えることが出来なくなった私の心は、ある日突然折れました。

心が折れるというか、精神が太い鎖出雁字搦めになったというほうが、しっくりくるかもしれません。

それまでの人生で積み上げてきた色んな要素って、それぞれ相互につながりあってるのですが、なんだかそういう繋がりが、全部硬直して働きをやめてしまったような感じでした。

過去も未来もないし、好きなことも嫌いなことも、他との交流も、何もかも自分の中で石化していくような感じでした。

32歳。2004年夏前の出来事でした。

鬱だけが寄り添う真っ暗闇の部屋の中で

ある日、完全に崩れ落ちた私は、その日以来誰とも接触できず、外にも出られなくなってしまいました。

もう、本当に情けなく恥ずかしい話なのですが、会社は無断欠勤でした。

それからしばらくの間の記憶がかなり抜け落ちてまして、いったいどうやって過ごしたのか、非常に断片的なのですが、思い出せるだけ書いてみます。

当然、無断で会社を休んでるので、家の電話や携帯電話に何度も連絡があったと思います。

多分、上司だと思うのですが家に尋ねてきてくださったこともあったと思います。

ですが、あの日以来私は昼も夜もなく暗い部屋で布団に蹲って動けない状態です。

電話線は抜いちゃって、携帯電話は電源オフ、インターホンすらならないように、ブレイカーも落として、とにかく外部から接触されること自体を断ち切っていたように思います。

迷惑かけてるんだからお詫びしなければという気持ちもありましたが、その気持ちの何倍もの暗くてどうしようもない「負」に覆いつくされた自分でした。

結局、1週間なのか2週間なのか、それとも1か月以上なのか…、今では思い出すことが出来ないのにですが、とにかく結構な間いっさい誰とも繋がらず、布団に蹲っていたと思います。

どれくらいの時間を過ごしたのかわかりませんが、長い時間が過ぎていったように思います。

なんとも言えない真っ暗で不快さがパンパンに詰まった袋の中にいる心境でした。

そんな不快な暗闇の張りつめた静寂を打ち破ったのは、近くに住む実家の母親でした。

会社から話を聞いた母親が、心配して訪ねて来たのです。

九死一生。感謝してもしきれない母の慈愛。

先述したように、私は完全に外部からのアクセスを絶っていました。

母はドアノブに手料理を下げて、ドアポストに手紙を投げ入れて帰ったように思います。

どれくらい時間が経って気付いたのか、わかりませんが、私はその手料理を泣きながら食べました。

それから、何日も母親が私の家のドアに手料理を下げ、それを泣きながら食べる日が続きました。

母親の手料理というのは本当に凄い力があるものです。

どれほどの間その期間があったのか全く思い出せないのですが、外部の一切を断ち切って籠りきっていた私の心は、母親の根気と愛情によって、ついに解され母親に連絡を取りました。

それが、電話だったのか、メールだったのか、直接話をしたのか、思い出せないのですが、会社がとても心配してくれていて、傷病手当で休業を補償するための段取りをしてくれていることを知りました。

その休業補償を得るためには、心療内科医の診断書が必要とのことでした。

心療内科を訪れ、診察の結果、診断はやはり「鬱病」でした。

実は、こうなる予兆があった時から、私は心療内科に通院していました。

これまでは病に至らない「抑うつ状態」ということで、薬治療をうけていたのですが、結局最後にこうなってしまい、「鬱病」という診断となってしまいました。

その診断を受けたとき、とても不思議なことに、なにかホッとした自分がありました。

当時はまだ今のようにうつ病というのが一般的に理解されていなかったし、自分も理解が十分ではなかったので、まさか自分が精神疾患者になるなんて…と思いつつも、想像はできていました。

だから、「君はうつ病なんだから、ちゃんと休んで心に充電が必要ですよ。」と言われても、「あー、やっぱりそうだったんだ…。」と、すーっとその言葉を受け入れることができました。

今思えば、その瞬間が、落ちるところまで落ちたどん底でした。

当時の私は「得体の知れない暗い闇」に完全に覆いつくらされているような心境ではありましたが、それでも死を選ぶところまではいきませんでした。

あの母の慈愛がなかったら…。

私の転落人生は、悍ましい結果に至る前に底をつき、親の慈愛に救われました。

機能停止の休業生活。修復と充電、そして回復へ。

1人で閉じこもっていた私は「得体のしれない暗い闇」に負けてしまった自分を責めてばかりいました。

鬱病というのは、実は原因がはっきりしないものであり、それに打ち勝とうとしても独り相撲をとっているだけで、何にも解決しないということを、先生から説明を受けました。

これが私にとっては腑に落ちる説明で、なんとも言えない安堵感を得たことを覚えています。

この診断を受けて、会社とのやり取りをどのようにしたのかが思い出せないのですが、私は正式に会社を休業する生活に入りました。

たぶん2004年の秋ころでした。

心療内科の先生から鬱病の診断を受け、治療を開始して何か変わったのかというと、すぐには変わりません。

やっぱり、外部との接触は断ち切って、部屋の中に籠りっきりでした。

ですが、「今はとにかく休んで、充電すること。」と言われたことは大きかったと思います。

単に引きこもって悶々とする日々から、少しずつ肩の荷をおろしていけたというか、鎖で雁字搦めになって首も回らないような状態だったのが、時間をかけて少しずつ解れていきました。

どれくらい、そういう日々を送ったのか、まったく思い出せませんが、昼も夜もないような暗闇の生活だったのが、時間を感じることができるようになり、朝起きて夜寝るサイクルが取り戻せるようになりました。

日中に起きていられるようになって、初めて「活動」をする気になったように思います。

かと言って外に出る気分にまでは回復していませんし、テレビをつけても画面の向こうのテンションについていけず、見てられませんでした。

変な話なのですが、こうなったら神様にすがってみようかって思いました。

ですが、私の家は特に信仰心が強くありませんし、私自身今までの人生で考えたこともないので、どの神様にすがっていいのやら…。

とりあえず、世界の三大宗教ということで、仏教・キリスト教・イスラム教について情報を集めてみようと思い、やっと重い腰が動き本屋だったか図書館だったかに行きました。

あの心が折れた日以来、心療内科に行く以外の用事で外出したのは、その時が初めてでした。

「決定版 よくわかる世界三大宗教―キリスト教・イスラム教・仏教」という本を手に、家に帰りました。

面白いでしょ。笑

めっちゃくちゃ弱ったメンタルで宗教に近づいて、カルト教団に誘い込まれでもしたら大変ですから、神さまにすがるにしても、自分の心の中だけにしようと思っていました。

オウム真理教による一連の事件などを、ニュースでまざまざと見ていたので、神様にすがってみようかという気持ちはあっても、超恐る恐るで宗教のことを調べていました。

で、本題にもどりまして、買った書籍から何か心に響くものがあったのかというと、それ以前に活字を読むことが無理でした。笑

活字を読むにも気力がいるんですね。

その時の私は活字を読む気力すら、まだ取り戻せていなかったようです。

仕方ないので、ボーっと見ていられそうな映像とかがいいのかと思い、近所のTSUTAYAに行きました。

「イエス・キリスト」の生涯を描いた映画があったので、それを借りてみました。

残念ながら、私にはどうもキリスト教というのは、しっくりいかないようで、引き込まれませんでした。

元気だったころの音楽活動では、ゴスペルクワイヤー(聖歌隊)のバックバンドを務めたりしていたんですが、残念ながら身についていなかったようです。

では、イスラム教について…と一応は考えてみたのですが、メッカの方に向かって礼拝をささげる自分が想像できませんでしたので、それ以上の行動はとれませんでした。

となると、最後に残ったのは仏の道、仏教となります。

じゃぁ、頭丸めて出家するか…とは、いきなりはなりません。

少し話が横道にずれるのですが、私こう見えまして小さなころから日本の歴史が大好きでした。

日本史を学べば少なからず仏教というものが何かくらいは知識としてはあります。

でも、その教えとなると…。ほとんどわかっていません。

そんじゃぁ、お経を勉強してみるか…と言っても、これまた活字の嵐ですし、お経は漢字ばっかりで読むことすら困難です。

それでも、基本中の基本ともいえる般若心経くらいは…と思って解説本を買ってみたのですが、やっぱり無理でした。

ただ、このあたりでふと気づくのですが、少し前向きになっているんですよね。

結果は無理でしたが、チャレンジしようとしている自分に、その時気付いたんです。

んー、なんか動けるようになってるのかも、そんな気持ちがほんの少しだけですが、湧いてきたんですね。

「なんとか、このどん底を抜け出せるかもしれない…。」

2004年の暮れから2005年の年明けころのことだったと思います。

ブッダとの出逢い

ほんの少し動く勇気が湧いてきた私ですが、まだ活字を読む気力がありません。

そんなある時にネットで手塚治虫の漫画で「ブッダ」という作品があることを知りました。

活字がだめでも漫画なら読めるかもしれない。

そう思ったので、それを知った当日だったか、翌日だったか、覚えていませんが、とにかくすぐに行動していたように思います。

古い作品だったので、古本屋に探しにいったところ、文庫本化シリーズの書籍が歯抜け状態で売っていました。

とりあえず1巻はあったので、あとの続きは、もし読むことができれば、買いに来ようということで、1巻だけを105円で買って帰りました。

家に帰って、漫画を読み始めた私はあっという間に題1巻を読み終えてしまい、続きを読まずにいられない心境で、すぐに家を飛び出していました。

あっちの古本屋、こっちの古本屋と、思いつくお店を3店舗くらい車で梯子しながら、買い揃えました。

私にとってこの手塚治虫の「ブッダ」はとてつもなく大きな衝撃でした。

ブッダ。つまりお釈迦様。

それまでの私にとってお釈迦様といえば、釈迦如来像です。

金色に輝く、この上なく尊い、まさに信仰の対象としての存在です。

ですが、私は仏教に特別信仰心があるわけではありませんから、仏教というのは遠い存在でしたし、お経は私とは無関係のもの、仏像やお寺は観光の対象でした。

それが「ブッダ」を読んで、それまで抱いてきたような自分とは縁のない世界にいる「お釈迦様」という存在ではなくなってしまったのです。

手塚治虫の描くブッダは、意外にも「普通の人」でした。

生きるなかで出会う様々な苦悩や葛藤。

決して特別な人としてではなく、ごく普通の人として悩み苦しみ、そして乗り越えていく生涯を描いたストーリーが私の心を大きく打ちました。

後書きに加えて各界の著名人から寄せられた感想など、隅から隅まで読みました。

1度読んで、また読んで、もう一度読んで、更にまた読んで。

何度読んだかわからないくらい繰り返し読みました。

特殊な力を有する訳でもなく、むしろ心に弱さすらあるような、人間「ブッダ」が自分に乗り移るんじゃないかっていうくらい、読みました。

なんだか、生きていく力がやっと湧き出してきたように、感じました。

宇宙の真理を追究する引き籠り生活

ちょっと、タイトルが大げさすですが…。

「ブッダ」の世界に完全に入り込んだ私ですが、ちゃんと冷静でした。笑

この「ブッダ」を描いた手塚ワールドにハマったという自覚がありましたから。

次に私がとった行動は手塚治虫作品を読み漁ることでした。

「鉄腕アトム」「ブラックジャック」と名作多数ですが、ブッダの世界に完全にはまり込んだ私が次に読むべきは一つしかありませんでした。

「火の鳥」です。

また、古本屋を数店舗梯子回りして、文庫本で全シリーズを買い集めました。

この作品も私に大きな衝撃となりました。

時空を超えてこの世の中の事象のみならず全宇宙の真理にまで触れる壮大な世界観。

自分が鬱から抜け出せないでいる苦悩の小ささを愚かに感じ、最初は打ちのめされました。

正直、鬱だった私には、これを読んで生きる力を得られるとかいう、そういう刺激はありません。

ただただ、自分が愚かに感じました。

でも、手塚治虫のすごいところは、それでも、そんな私にとっても、面白いんです。

読むのはつらいのですが、これも何度も読みました。

不思議なことに、読むうちにつらさが抜け、素直に「火の鳥」の中から色んな価値観を吸収していくような感じがありました。

この作品の中で「火の鳥」は火の中に自分の身体を投げ入れ蘇生します。そうして永遠の命を得て、この世界のすべてを、司っています。

あらゆる宗教を越えた「神」としての存在です。

そして、それは鳥の姿をしていますが、実はおそらく宇宙そのものとして描かれています。

この世界にどっぷり浸り何度も何度も読み返すうち、私の雁字搦めでどうにも身動きのとれなくなっていた精神が解きほぐされていきました。

2005年のもうすぐ春になろうかという頃だったと思います。

ついに抜け出した鬱の暗闇

手塚治虫の「ブッダ」と「火の鳥」は私にもう一度やり直していく力を授けてくれました。

授けてくれたというか、手塚漫画の世界に保護されたような感じでした。

変な例えなのですが、昔テレビでよくやっていた「ムツゴロウ王国」で、憔悴しきった状態で保護された動物が、温かいお湯でキレイに洗ってもらったり、餌をたべさせてもらったりして、生きていく力が回復していく、あんな感覚です。

来る日も来る日も「ブッダ」「火の鳥」「ブッダ」「火の鳥」と読み返しました。

鬱のどん底で宗教にすがろうと考えた私に手を差し伸べたのは、漫画の神様でした。

かくして、雁字搦めだった精神が解れだした私は、ドライブに出てみることにしました。心のリハビリです。

と言っても、人と触れ合うような勇気はないので一人ドライブです。

行く先は奈良の薬師寺でした。

ここは、私が小学5年生のときに夏休みの自由研究の題材にさせていただいたところで、初めて一人で何もかも計画をたてて遠出した場所だったのです。

拙い小学生のはじめての遠出先に、33歳の鬱病のオッサンが再び訪れたくなった心境…、伝わりますでしょうか…。

手塚ワールドに保護されて、「ブッダ」と「火の鳥」に心を洗われた私は、ある意味で精神状態がものすごく若くなっていたのかもしれません。

幼くなったとか、拙くなったとか、そういうことではなく、若返った感じです。

とてもクリーンな気持ちでした。

ちょうど季節は春。

たんぽぽが道端にたくさん咲いていたのをうっすら覚えているのですが、少し暑さを感じたと思うので、たぶん5月くらいだったのではないかと思います。

季節を感じたのは何年振りだろう・・・・。そう思ったのを覚えています。

20年以上ぶりに訪れた、なつかしいお寺だったのですが、実はそのお寺の記憶は残っていません。

それでもドライブはいいリハビリになったのでしょう、心が軽やかになった実感がありました。

私はそのことを心療内科の先生に報告しました。

身体を動かすことで心身をデトックス

ついに動けるようになった私に心療内科の先生から大きなアドバイスがありました。

ジムに通って運動することを勧められました。

鬱どん底の私であれば、この提案は「はい…。」って聞いて、実際に行動には移せなかったと思いますが、この時点では既に行動できる力が戻ってきていたのですね。

すぐに申込みをして、それから毎日3時間くらいのジム通いが始まりました。

当時の私は鬱病でまったく出歩かなくなったのもあるのですが、今にして思えば酒と糖質でかなり肥満になっていました。

先述したように鬱病前はめっちゃくちゃお酒を飲んでいたのですが、完全に鬱病になってからも控えめになったとは言え、お酒は欠かさず飲んでいました。

ビールをよく飲んだいたので、糖質とのダブルパンチです。

当時は糖質が身体や精神に影響を及ぼすなんて考えもしていなかったので、食事にも糖質はわんさかでした。

今にしてみれば「そりゃ太るわ。」ってな具合です。

それでも、33歳の私の身体はまだ若かったんですね。

ジム通いの効果はとても大きなものがありました。

身体を動かして筋肉をつけ、汗を流すことが、こんなにも人に良い効果があるなんて、自分でもびっくりでした。

体重は最終的には半年で5kgほど落ちたと思います。

実際の数値はよく覚えていませんが、かなり頑張って筋トレしたので、体脂肪率の改善のほうが体重減よりも大きな成果を出していました。

そして何より、身体を動かして汗を流し、サウナと風呂で、もう一汗かいて、キレイさっぱりして、家に帰る、そのサイクルが私の精神を再構築する上でとても重要な土台になりました。

物理的にも精神的にも、体内に蓄積していた「何か悪いもの」が汗とともに、流れていくような感じでした。

いわゆるデトックス効果ですね。

私の精神に覆いかぶさっていた「暗い闇」は、「ブッダ」「火の鳥」を読んだことで剥離し、体の中に蓄積していた老廃物として汗とともに排出していったような感覚でした。

2005年秋のことでした。

人生最大の心残りを整理して再出発

日中にジムで体を動かし、家に帰って手塚ワールドの中に自分を漬け込んで、デトックスをする日々が3か月ほど続いたころからだと思います、私は自分の未来について考えるようになっていました。

「ブッダ」「火の鳥」を繰り返し読み続けたことは、ある意味で自己洗脳です。

過去の自分の生き方を全否定するまでではありませんが、それまでの人生で積み上げた価値観を再稼働させて、未来を描くことは全くできなくなっていました。

ただ、それは鬱病のどん底にいたころの、絶望感に満ちた価値観の否定ではなく、新しい未来を再構築する、意欲に基づいた価値観の再構築でした。

これからの未来は、ゼロの状態からなんでも選べる。そういう心境でした。

そんな私に、休ませてもらっていた会社から連絡がありました。

休業を補償してもらっていると先述していたのですが、これは正確には「傷病手当金」で生活を補償されている状態です。

これには当然のことながら期間があって、支給開始から1年6か月が最長とされています。

2004年夏前からの休業には、この手当の支給を受けていたのですが、リミットが目前にせまっていたのです。

会社復帰するか退職するか…。

鬱病の闘病を経て、価値観再構築の最中にいる私には、会社に復帰するという選択肢はありませんでした。

大学を卒業して23歳に入社し、私を大人として成長させてくださり、私の鬱病闘病生活を経済的に生活を支えてくださった会社です。

そして、ある日突然の出社拒否と多大な迷惑をおかけしてしまった私を、寛大に支えてくださった会社です。

大きな感謝の念がありましたが、不思議と心残りはありませんでした。

私は辞表を提出することを決め、鬱病で休んでから初めて自分自身で会社に連絡を取りました。

いざ会社に訪れようとした時、今まで目を背けていた大きな傷が私の中で疼きました。

突然休んだことで多大な迷惑をおかけしまったであろう上司・先輩や同僚へ顔向けできない気持ちです。

穴があったら入りたい心境(というか完全に穴の中にいる状態ですね)は、休み始めた鬱病どん底のころと何ら変わっていませんでした。

休んで以来、会社の方との接触は完全に断ったまま、お詫びすらせずにいましたので、当然のことでした。

こうしたことのすべてを整理しなければ、自分は未來に一歩を踏み出せないことはわかりきったことでした。

そうしたことを乗り越えて、辞表を手に会社を訪れるのはプレッシャーでしたが、なんとか大丈夫でした。

我ながらホッとしたものです。

上司に辞表を提出し、ご迷惑をおかけした多くの方々に、お詫びと退社のご挨拶廻りをしました。

誰もが私の回復を心から喜んでくださり、そして励ましてくださいました。

本社にも出向いて社長にお会いし、仕事上関係があったたくさんの方とお話をしました。

そして誰もが応援の言葉をかけてくださいました。

こんなに心の温かい方々が集まった素晴らしい会社を、自分の都合だけで退職する私は本当に愚か者だと思いました。

ところが、会社の方々がかけてくださる温かい言葉は、そんなネガティブな私の気持ちすらも打ち消してしまいました。

ついには、目を背けていた大きな心残りが整理され、清々しい気持ちになったことをよく覚えています。

もし、このブログ記事を元会社の方々が読まれることがあったなら、改めてここでお礼を申し上げたいと思います。

本当にありがとうございました。

余談なのですが、実は今でも会社員だったころを夢に見て目覚めることが多いです。

少なくとも週に一度は夢の中で、私はまだ会社員だったりしています。

と言っても鬱病のあの苦しさを思い出すようなものではないので、魘(うな)されたりしてるわけではありません。

私はカフェを開業して既に15年以上です。

会社員生活は約10年で、もはやカフェオーナー歴のほうが長いのですが、私にとってこの会社員時代はとてつもなく大きなものだったことを表しています。

おそらく死ぬまで夢にみるんでしょうね。

もちろん嫌な気はしていません。

ともあれ私は、かくして本当の自分の未来に向かって、再出発を切ることになりました。

2005年の暮れに近いことだったように記憶しています。

生きる道を選ぶ

会社を訪ねた翌日から私は晴れて無職者として、今後の人生を再構築する作業に入りました。

先に述べたように「何でも選べる」とは言ったものの、実はコンプレックスもありました。

就職についてです。

以前勤めていた会社の温情もあって、清々しく新し道を歩みだすことができたとは言え、鬱病で会社を突如休んだ末の自己都合退職です。

再就職活動をするには、あまりに大きなハンディキャップです。

前職の実績もあるにはあるでしょうけれども、ひけらかせるような立場にもありません。

そして何より会社員に戻ったら、またあの「暗い闇」が私の中に芽生えてくるのではないかという、不安もありました。

そんな訳で私のもつ選択肢は起業あるのみでした。

もはや、失うもののない状況の私ですから、まったく躊躇はありませんでした。

「なんでも選択できる」という心境は、こういう時には強いです。

その当時、幸い私は独身ですし、交際している人もいませんでした。

親はまだまだ元気だし、兄弟は妹一人で既に結婚して子供も二人いましたから、家族の将来を考えても、最悪私がどうにもならないジリ貧起業家になったとしても、迷惑かけないようにすれば大丈夫だと思える状況でした。

4畳半一間のアパートで一人生きていけるくらいなら、なんとかできるだろう。

それまでの価値感をかなぐり捨てたことで、私は前だけを見て開き直れるほどまでとなっており、本当の回復まであと一歩というところまで来ていたのだと思います。

カフェ開業に辿り着いた経緯

起業することありきで、会社を退職することを選択した私でしたが、どういう事業で起業するのか、まったくプランのない状態からのスタートでした。

話が少し前後するのですが、この起業決断から情報を収集していた時期というのは、実は辞表提出する前のことです。

起業をすると決めたものの、何をしようか…。

「何でもできる」とは言ったものの、私にできることは限られており、選択肢は少ししかありませんでした。

私は起業に活かせそうな経験を列挙して考えてみました。

  • パーツを組み合わせてパソコンを組める
  • ホームページを制作できる(htmlに限る)
  • 10年のビジネス経験(営業職)
  • 20年のバンド経験
  • 喫茶店でのキッチンワーク経験(食事・デザート・ドリンク)
  • フレンチレストランでのホールワーク経験

乏しい人生経験ですが、それでも人生を拓く糸口はありました。

今でこそ何もかもがネットの時代ですが、当時はまだまだビジネスにネットが活用されていませんでした。

私は飲食業にネットのスキルを組み合わせたビジネスを起こすことにしました。

その着想で思い悩んだ末に行きついたのがカフェでした。

学生時代のアルバイトとは言え、繁華街のど真ん中で繁盛する喫茶店のキッチンワークをどっぷり4年間担当させてもらって得た経験には、少しばかり自身がありました。

肉料理、副菜、ソースづくりまで一通り任せてもらえる環境でやっていました。

食材の仕入れ業務やチーム運営はさすがに学生アルバイトでは経験できませんでしたが、そこは会社員時代にお釣りがでるほど経験を積んでいます。

プロジェクトを立ち上げて、たくさんの人を引き込み、実績を出していく経験も、音楽活動や社内プロジェクトで、経験しています。

臆するとすれば、鬱病になった自分が、はたして以前のように結果をだせるのか…という自分自身への懐疑心です。

その懐疑心を乗り越えさせてくれたのが音楽でした。

このブログ記事の最初のほうに、鬱病前はプライベートで音楽活動を非常に熱心にしていたことを書きました。

鬱病になってその音楽への情熱はがっくりと落ち込んでいたのですが、会社を辞職するころには、鬱の回復にともなって音楽への情熱も回復していて、バンド活動を再開させられるようになっていました。

むしろ、鬱になってマインドリセットしたところに持った音楽への情熱は、それ以前より強くポジティブでした。

会社員時代に培ったビジネスとコンピュータスキル、学生時代の飲食店経験、ライフワークともいえる音楽への情熱、この三つを掛け合わせての起業、それが私のカフェ起業プランでした。

ようやくたどり着いた自分の人生。幾多の苦難を乗り越えて。

こうして、カフェを起業することを決意し、数か月のうちには実際にお店をオープンさせました。

カフェ人ジンタの創業は2006年9月9日です。

創業してから今に至るまでの歩みは、鬱闘病からカフェ開業までの歩みに、負けずとも劣らない、七転八倒のエピソードが山盛りです。

そのお話も機をあらためてじっくりとブログ記事にさせていただこうと思っています。

開業までの歩みだけでも相当なボリュームとなりましたので、今回のこのブログ記事はここで終わりにさせていただこうと思います。

ここまでお読みいただいた方には十分伝わっていることかと思いますが、カフェジンタの事業は私の人生そのものです。

2006年に創業して15年。

三条烏丸という京都では有数のビジネス激戦区、長く続けることが難しいと言われるこの業界で、これだけ長く続いていることを、お褒めいただくことがよくあります。

確かに倒れてもおかしくないくらい、厳しい状況というのは何度もありました。

そこまでいかなくても、いつ何時も精神的にはキツくて、肉体的にはハードな仕事です。

多分、それでも続けられるのは、カフェジンタが私の人生そのものだからです。

いつ何時もキツくてハードなのに、あの「暗い闇」に襲われる不安は全くありません。

結局のところ、鬱だったころの私は、私自身が自分の人生を受け入れてなかったことに、端を発するような気がします。

それを悪化させたのは、また別の様々な要因がありますが、その中でも大きく悪影響を及ぼしたのは食生活の乱れだったと思います

食生活についての考察はまた別の機会に記事にするつもりですが、糖質の過剰摂取と大量の飲酒による肝臓への過負荷が私の鬱を誘発したと推定しています。

私がカフェジンタで糖質制限への対応をメニュー化し、最前面において強めの警鐘とともにお客様へご提案するのも、実はここに根源があるからです。

食事を提供する事業者として、美味しく召し上がっていただくことと同様に、大切なミッションがそこにあるという考えです。

カフェジンタを営むことが私の人生そのものである以上、その営みを通じてカフェジンタにお付き合いくださる方のご多幸につなげていければ…、そんな思いで今はやっています。

少々おせっかいなカフェ屋ではありますが、これからも面倒がらずにカフェジンタをご愛顧いただきますよう、どうぞよろしくお願いいたします。


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